(今回の記事は消費者/ユーザー側としてふと思ったことを書いています。知識もあまりないので認識の間違っていることもあるかもしれませんが、問題意識やアイディアの始まりはこんなところから、という例にもなると思い、上げてみます。)
先日、中3の長男の部活(卓球)の保護者会があったので、行ってきました。各保護者の自己紹介があってみなさんが言われていたのは「子どもがとても楽しいと言っている」「以前はスポーツとか全然やっていなかったけど楽しくやっているみたい」「打ち込むものができて親としてもうれしい」「3年生なので恩返しするんだと子どもが張り切っている」「良い仲間ができてうれしい」「家では絶賛反抗期だけど部活はちゃんとやっているのでちょっと安心」といったことでした。
うちも似た感じで、長男に打ち込むものができて、仲間と力を合わせる経験に楽しく取り組んでいて、かつ彼らなりに強くもなれているし、「宿題もちゃんとやらないと部活には参加させない」と言われてそっちもやるようになったりといいことづくめです。
しかし顧問の先生はこれから部活は減らさざるをえなくなるでしょうと話しつつ顔を曇らせていました。先生の過剰労働は大きな問題となっているので、この流れは当然想定されたことですが、この先生に限って言えば過剰労働よりも部活が縮小されることに危機感と無念さを感じているようでした。
僕自身はといえば、先生の過剰労働への対応は待ったなしという点には異論はありません。また義務教育がしっかり行われるようにすることが貧困・格差といった問題への対応としても不可欠だと思います。
ただ、個人的に学校に最も価値を感じているのは、いわゆる勉強よりも集団活動(行事、部活)です。自分の学校時代を思い起こしても、子どもたちを見ていても。部活はクラブチームでやればいい、という意見もありますが、勝つことばかりでなく全員が成長できるように、というのはクラブチームよりも(中学までの)部活の方がやれるのではと、特にスポーツ系の習い事に通わせてきた経験から感じます。
一方、勉強に関して言うと、乱暴な言い方をすれば公教育の小中学校では、得意な子は退屈してしまい苦手な子はついていけないしそれをフォローするほどきめ細かい指導は学校では難しい、という印象を受けています。
つまり、学校「ならでは」を考えた時、部活や行事を減らしたり外に出し、勉強に特化するというのは本当に正しい方向なのだろうか?と思ってしまうのですが、、、。勉強こそ学校でやる部分を絞り込むとともに他の手段を活用し、むしろ行事や(裾野を広げるための)部活こそ学校で取り組んだらいいと思うんだけどなあ、と妄想してしまいます。
保護者会の翌日、市の大会があり、長男のチームは団体で準優勝でした。優勝を目指していたので目標は果たせず、実は前回も準優勝でその時彼は悔し泣きしていたのですが、今回は「やりきったので悲しくない」と言っていました。運動が得意なわけでも英才教育を受けてきたわけでもない彼が充実した時間を過ごせているのは部活があったからだと思います。彼の学校生活において、彼も僕も最も価値を感じている部分です。
(早稲田大学グローバルエデュケーションセンター 高橋俊之)